【哲学者の名言】”我思う、故に我在り” 天才デカルトが全てを疑って放った一言

哲学者の名言

残した理論や功績は数知れず、様々な分野で活躍したフランスの哲学者、デカルト。
今回は、彼の生涯、功績、そして”我思う、故に我あり”について解説していきます。

デカルトの生涯

1596年、フランスのトゥレーヌ州ラ・ヌーでデカルトは誕生しました。
10歳の時に、名門ラフレーシュ学院に入学し、病弱ながらも成績優秀のまま卒業します。
その後デカルトは、18歳の時にポワティエ大学に入学し、法学と医学を学びました。

大学卒業後は、世間を学ぶために旅に出ており、22歳の時にオランダの新教軍に入隊しました。
その次の年、デカルトは三十年戦争下のドイツに赴き、旧教軍に入隊します。
入隊後の休暇中、彼はノイブルグ(ドイツ)の宿で霊感に満たされ、「驚くべき学問の基礎」を発見したとされています。

その後デカルトは軍籍を離れ、ヨーロッパ各地を遍歴したのち、32歳の時にオランダに隠棲し哲学研究に没頭しました。
この頃からデカルトは、「宇宙論」という世界観を機械的に捉えた本の作成に取り掛かります。
しかし、その5年後の1633年、ガリレオが地動説による宗教裁判で有罪になってしまいます。
これを知ったデカルトは、「宇宙論」の出版を断念します。

その4年後の1637年、デカルトは自身の科学論文をまとめた「方法序説」を出版します。
そしてさらに4年後の1641年、形而上学について書いた「省察」を出版します。
この「省察」に前後して、彼の評判は一気に高まることになります。
その一方、一部の宗教家に無神論者として批判されました。

その後のデカルトは、プファルツ公女(ライン宮中伯フリードリヒ5世の娘)とやり取りをはじめ、心身問題(人間の心と体の関係について)について興味を持ち始めます。
その後、1649年に心身問題についてまとめた「情念論」を出版します。

1649年にスウェーデン女王クリスティーナから招きの親書を3度受け取ります。そして、最終的にはスウェーデンの海軍提督が軍艦をもって迎えにきました。
そこで折れたデカルトは北方のストックホルムに赴きましたが、ストックホルムの寒さに慣れずに風邪を拗らせてしまい、1950年に54歳で肺炎のため亡くなります。
彼の最後の言葉は、「さあ、今度は出かけねばならぬ」でした。

デカルトの功績

彼の功績は哲学、形而上学、自然哲学、倫理学、数学など幅広い分野に及びます。

その中でも皆さんがよく知っている数学で有名なものは、二次元直交座標です。

皆さんもご存じ、x軸とy軸が直角に交わったコレです。
これを初めて考えたのが、デカルトなのです。
今も小学校から使われていることを考えると、すごいですよね。。。

そして次に、演繹法です。
これも小学校や中学校で実は学んでいるものです。
演繹法はわかりきっている原理から、論理を進めていく学問の方法です。
演繹法の中で代表的なのが、三段論法です。

すべての人間は血が通っている→ちばたみは人間である→ちばたみは血が通っている

三段論法はこんな感じで論理を進めていきます。
確か中学生の時、こんなのやりましたよね。
三段論法を作ったのはデカルトではありませんが、演繹法を体系づけたのはデカルトです。

“我思う、故に我あり” とは?

デカルトの哲学は懐疑論という方法で世界の真理を追求するものでした。
特にデカルトは方法的懐疑、あらゆる存在を徹底的に疑うことを行い、真理に到達しようとしました。
知覚や聴覚、経験、数学、最後には自分自身の存在など、ありとあらゆる存在を疑った彼はある一つのことを考え付きます。
それは

疑っている自分は存在するではないか

ということです。
これが、コギト・エルゴ・スム我思う、故に我在り)です。

皆さんもなにかを疑っている友達がいたら、これを教えてあげてください。

最後に

今回はデカルトの人生、功績、 そして”我思う、故に我あり”について解説しました。
少しでも哲学に興味を持ってくださったら、ありがたいです。
ここまで、ご覧いただきありがとうございました。

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